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ドーピング疑惑で渦中の人物が相次ぎ不審死…「裏切り者=死」のロシアで一体何が

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リオデジャネイロ五輪の開幕まであと5カ月あまりに迫る中、ロシア陸上界の組織的なドーピング疑惑をめぐって、新たなスキャンダルが発覚した。2月中旬、同国の反ドーピング機関(RUSADA)のニキータ・カマエフ前最高責任者(52)が死亡したその約一週間後、英国のサンデー・タイムズが、カマエフ氏がロシアのドーピング汚染にまつわる暴露本を執筆しようとしていたとのスクープを報じたのである。これまでも国家に歯向く“裏切り者”が相次いで不審な死を遂げてきたロシア。ドーピング問題の渦中にいたカマエフ氏の身にいったい何が起きていたのか? (佐々木正明)

 ■死人に口なし

 カマエフ氏の死亡は、推理小説を地で行くようなストーリーだ。

 カマエフ氏がトップを務めていたRUSADAは世界反ドーピング機関(WADA)から「不適格な組織」と認定された。組織の刷新を図るために更迭されたカマエフ氏は2月14日、モスクワ近郊の母親の別荘近くでスキーを楽しんでいて、突然、心臓の痛みを訴えた。

 そして、そのまま帰らぬ人となったのだ。

 カマエフ氏はソ連時代の1987年から科学者として、ロシアのドーピング検査機関で勤務してきた。突然の訃報に、カマエフ氏と同時にRUSADAを去った同僚は「これまで、彼に心臓の問題があるとは聞いたことがなかった」と露メディアに打ち明けた。

 さらに2月上旬には、この疑惑の中枢にいたとされるRUSADAのビャチェスラフ・シニョフ元会長が死亡したことがわかった。元会長の死について、ロシアのメディアは詳細をほとんど伝えていない。

 ドーピング疑惑の追求が、陸上界からほかの種目にも広がるのではないかと指摘されてきた矢先のキーパーソン2人の死。プーチン政権は、国家ぐるみの関与自体を「政治的でばかげている」(ムトコ・スポーツ相)と反発しているが、彼らが口を開けば、さらなる不正行為が暴露される恐れがあった。

 疑惑追及の最中の死だけに、周囲では「口封じではないか」との疑念を呼ぶ事態になった。英サンデー・タイムズも「秘密を暴露する意図があったカマエフ氏のニュースは、死をめぐる疑惑をさらに深めることになるだろう」と指摘した。

 ■発覚はドイツのドキュメンタリー番組

 ロシアにとってスポーツは歴史的に、国威発揚を図り、米国やほかの先進国と伍(ご)して負けない大国であることを世界にアピールする手段として用いられてきた。五輪では選手のメダル獲得が至上命題となり、ソ連時代には国家が逸材を幼少時代から育成し、「ステートアマ」とされる選手を強化してきた。プーチン政権でもその路線は引き継がれた。

 ドーピング問題では、不正に薬物を染めたロシア人の選手が次々に、五輪や世界選手権でメダルを獲得していた。暴露されるまで、ロシアの子供たちは、世界で活躍する自国の選手を誇りに思っていたに違いない。

 しかし、2014年12月、ドイツのテレビ局が、実際にドーピングをしたロシア人選手の告白をドキュメンタリー番組で報道。世界に激震が走り、国家ぐるみの疑惑が発覚する端緒になった。

 報道を受け、WADAが正式な調査を始めた。そして、15年11月9日、露陸上界で選手の禁止薬物の使用や検査逃れのための贈収賄などが日常化しているとの報告書をまとめた。組織的なドーピングを隠蔽するため、正規のものとは違う裏の検査場さえ存在していたことが発覚した。

 国際陸上連盟はその後、露陸連を暫定的な資格停止処分にし、ロシア国籍の陸上選手は国際大会に出場できなくなった。

 ■「私は真実を知っている」

 カマエフ氏が英サンデー・タイムズのスポーツ部門チーフ記者、ディビッド・ウォルシュ氏にEメールを送信してきたのは、この問題が世界のスポーツ界で席巻していた最中の11月21日のことだった。ウォルシュ氏が同紙に、そのメールの一端を明らかにした。

 「こんばんは。ウォルシュ氏のEメールに個人的な会話をもちかけたいのだが、できるでしょうか」

 カマエフ氏はこんな表現で、ウォルシュ氏を直接、指名してきたのだという。ウォルシュ氏はロシア陸上界のドーピング問題の調査報道を担ってきた人物であり、カマエフ氏もそのことを把握していたようだ。

 「私は、これまで公表されていない事実や情報を握っている」

 カマエフ氏はこう述べ、ソ連時代からのドーピング疑惑の真実を明らかにする暴露本を書きたいと打ち明けた。ウォルシュ氏が返事を出すと、12月4日に再びメーを寄せた。

 「私の個人的なアーカイブには、秘密の情報源からのものを含むさまざまな書類がある」

 カマエフ氏のさらなるPRの文句。ウォルシュ氏に対して、彼は国際オリンピック委員会(IOC)などの世界的機関やロシアのドーピング機関とやりとりした書簡も有しているともちかけた。

 「私が保管している資料はドイツのドキュメンタリー番組が暴露したものとは比較にならないほどの代物だ」

 この時点で、カマエフ氏はウォルシュ氏とスカイプで連絡を取り合うことを約束した。しかし、ウォルシュ氏はそれ以上、カマエフ氏と連絡を取ることはなかった。その理由を同紙でこのように説明した。

 「カマエフ氏のメールが正真正銘なもの(後に彼の友人にも確認した)であることは何の疑いもなかった。しかし、カマエフ氏の3番目のメールは、彼の英語のレベルがそれほど高くなく、英語で共著の本を書くことは非常に難しいことを示していた。さらに気乗りしなかったのは他の理由もあった。私は(この時点で)カマエフ氏が認識している以上に彼のことを知っていたのである」

 カマエフ氏は11月、WADAの報告が発表されたとき、この報告書はロシアに対して極端なバイアスがかかったものだと非難していた。

 報道の第一線で疑惑を追い続けていたジャーナリストが、カマエフ氏の報告を受けたとしても、それは真実を明らかにするたぐいのものではないと判断したことは想像に難くない。

 ■疑惑を打ち消す露メディア

 カマエフ氏がウォルシュ氏にメールを出したとき、まさかその3カ月後に自身の命が絶えるなどとはゆめゆめ、思わなかっただろう。そして、出版計画にどういう意図があったのかは墓場まで持っていった。結局、カマエフ氏にとって、ロシアの不正の闇を暴露しようとする計画は、命がけの行為となってしまった。

 興味深いのカマエフ氏の死が明らかになって以降、ロシアの国営メディアがカマエフ氏にまつわる情報を積極的に明らかにしていることだ。

 同16日に、RUSADA関係者がこんなコメントを出した。

 「カマエフ氏は亡くなる前に時々、近い友人に負担のかかる運動をしたとき、心臓付近に痛みがあると訴えていたようだ」

 これは、心臓に何の不調もなかったとする当初の情報を事実上、打ち消すものとなった。

 さらに、露メディアでは同17日にはモスクワ市内でカマエフ氏の葬儀が行われたことも報じられた。

 そして21日、英サンデー・タイムズのスクープが報じられた後も、イタル・タス通信がRUSADA関係者のコメントを打電した。

 「どこかの米国の出版社がカマエフ氏に本を書くよう依頼したようだ。彼は私に『執筆する価値はあるのか否か』と相談してきた。後に私にこう話したんだ。担当者が筋立ての口述書き取りを始めた、と。でも彼はこのことに反対で、気にくわなかったようだ」

 さらに、カマエフ氏は亡くなる15日前にこの関係者に「もう書きたくない」と打ち明けていたのだという。

 この報道はロシア国内で、カマエフ氏の暴露本計画の衝撃を和らげる一定の効果をもたらした。

 ■暗殺された元副首相と重ねるネットユーザー

 RUSUADAの疑惑には、まだまだその全体像に霞がかかっている状態だ。謎が新たな謎を呼んでいる。

 RUSADA関係者の指摘はカマエフ氏が本を書くよう組んだパートナーが米国の出版社であり、ウォルシュ氏の所属する英新聞社ではなかった。彼には複数の社と組む暴露本計画があったのだろうか。

 カマエフ氏にはきっと、組織の責任者としてドーピング問題を引き起こした心労がたまっていただろう。しかし、スキーをする元気も体力もあった。52歳の死はあまりにも若い。

 さらに、カマエフ氏より約10日前に亡くなったもう1人のRUSUADA元会長の死について、不思議なことにほとんどのロシアメディアは沈黙を保っている。

 欧米や日本のような国なら、世界的なスキャンダルの中心人物となった2人の死について、連日、自由闊達(かったつ)なメディアの調査報道であふれかえっていただろう。

 ロシアの暗部を暴こうとしたカマエフ氏について、ロシア国内でもさまざまな噂が飛び交っている。とある独立系メディアの掲示板に、ユーザーたちのこんなのやりとりが綴られていた。

 「(カマエフ氏を)殺害した人物にまつわる秘密があるのだ」

 「じゃあ、カマエフ氏はドゥリツカヤ嬢と散歩していのかい?」

 「ドゥリツカヤ嬢」とは24歳のウクライナ人、アンナ・ドゥリツカヤさんのことだ。昨年2月、ロシアの野党指導者ボリス・ネムツォフ氏がモスクワ・クレムリンの近くで何者かに暗殺されたときに、交際相手のネムツォフ氏と一緒に歩いていた美人モデルだった。

 ネムツォフ氏の暗殺事件をめぐっても、警察当局は容疑者を何人か特定したが、遺族は当局の捜査自体を批判しており、真相は藪の中だ。

 ユーザーはカマエフ氏の存在を、プーチン大統領に反発してきた“裏切り者”であるネムツォフ氏に重ね合わせたのだ。

 ■事実は小説より奇なり

 ロシアの組織的なドーピング疑惑はさらに広がりをみせ、国際機関の調査で今度は、国際陸連前会長でセネガル人のラミーヌ・ディアク氏にも飛び火した。フランス司法当局はディアク氏を汚職や資金洗浄の容疑で捜査しており、国際刑事警察機構(ICPO)も国際指名手配している。

 一方、リオ五輪への出場が危ぶまれているロシアの陸上選手たちについては、3月、国際陸連がロシア当局の再建への取り組みをふまえ、出場の可否を判断する報告書を提出することになっている。

 真実は小説よりも奇なり-。18世紀から19世紀に英国で活躍した詩人、バイロンの作品の言葉に端を発したことわざだ。これまでも、ロシアの暗部が明るみになった事件は、その英国が舞台となってきた。

 カマエフ氏がもし今、存命なら、再び英国発でドーピング疑惑の実態が暴露されただろうか? リオ五輪に全選手が出場停止となる事態に陥ったら、どんなコメントを残しただろう。

 今回の問題の最大の犠牲者は不正に手を染めず、自身の生涯をかけ、五輪を目指して頑張ってきた他のスポーツ選手であり、将来、スポーツ界で輝くことを夢見てきたロシアの子供たちである。

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